世界初の先物取引を行った、最強の豪商 淀屋の存在

江戸時代初期に世界初の先物取引が、大坂(堂島)の米市で行われていました。日本は資本主義の先駆けで金融立国だったのです。米の先物取引所にあたる淀屋の米市は、日本の経済発展に大きく影響しました。その存在は、紀伊国屋文左衛門、三井、鴻池も足元にも及ばない程です。幕府の闕所(けっしょ)により歴史から消えた 淀屋は、栄枯衰退を極めた最強の豪商でした。

品質管理をする人、米俵をたくさん担いで曲持ちする人(摂津名所絵図)

淀屋は、大坂で「天下の台所」の礎を作り日本の経済発展に大きく寄与しました。江戸時代は、米本位制で経済が発展しており、現金化は米問屋を介して行われていました。大名の収入は領内で取れる石高(土地の面積でなく、米の量)で表されていました。

堂島米市の図(浪花名所図会) 広重(寛政9年(1797)~安政5年(1858)

日本全国で異なっている米価格を米相場で定める「米市」を淀屋は、幕府(米将軍と呼ばれた徳川吉宗の時)に認められました。先物市場「堂島米会所」では、米の売買価格を収穫前にあらかじめ決める「帳合米取引」が行われていました。

米市では、米の売買が成立すると、現金ではなく手形が受け渡されました。この手形が先物取引に発展しました。当時、公的な取引所では、世界で最初の商品先物取引でした。

天候に大きく左右される米の出来高は、価格も大きく変動しました。淀屋は、米が収穫される前に手形で買い取ることで全国の米が大坂に集まり、莫大な財を成していきました。

米の引換き渡しに使われていた米切手

米切手(手形)は、米倉にある分の米の量で取引がされていました。そのために、信用が大坂の商家で大切にされるようになりました。

こういった動きにより、先物取引は日本各地に広がっていったのです。世界発の商品先物取引へと発展した米市場では、年間で約500万石が流通しており、更にその4割の約200万石(収穫高の約10%で金額にすると200万両)が大坂で取引きされていました。

芳光(嘉永3年(1850)~明治24年(1891)堂島米市場
明治初期の堂島米穀物取引所

明治初期の堂島米穀物取引所(上の江戸時代の絵と変わらない風景)

時速720キロの情報伝達網

米市場は、大坂の堂島の他に江戸や下関などで開かれていました。堂島の米相場の価格が基準だったので取引の期間になれば、毎日のように飛脚が各地に伝えていました。

米の値によって、いつ売買するかを判断していました。しばらくすると相場を早く知らせることを生業とする者が現れました。3里(11.8km)ごとに中継所を設けて、大きな旗を振って各地に米の値を伝えました。

これを「旗振通信」と言いました。夜になると提灯。天候が悪い時は伝書鳩も使われました。旗振通信の方法は、最初に狼煙(のろし)を上げて、次に遠方の人が望遠鏡で 旗振りを見て価格が伝えられました。

通信手段では他にも飛脚が使われていましたが、旗振りのスピードは、時速720kmになり、大坂から和歌山までは、13カ所の峠を経由して3分で到達しましたので、飛脚の商売は上がったりになりました。この旗振りは、江戸時代中期から明治初期にかけて、先物価格を伝える通信手段として利用されていたのです。

¶ 栄華を極めた淀屋の終焉
江戸時代の金貸しは、両替屋(三井両替店や鴻池両替店)が、金銀銅貨を両替する傍ら、副業として預金業務と貸付業務を行っていました。預金には利息を付けていませんでしたが、貸付の利息は、月利1.5%(年利18%くらい)でした。また両替商には、幕府から莫大な御用金を課せられることがありました。鴻池では大名貸し中心の両替商で、利率は10~12%でしたが、貸し倒れがあり実際の利益は3~4%でした。

淀屋は、米市場で儲けたお金を大名に高利で貸し付けていたと言われています。淀屋は五代目辰五郎(屋号)の時になると、大名への高利な金貸しや、豪勢な生活ぶりに幕府が目を付けられるようになりました。そして全財産を没収され、大坂から追放されたのです。

つづき「その後に復活した淀屋
つづき「淀屋の始まり
つづき「株式市場に引き継がれた米市場

淀屋に関する書籍は、こちら
先物取引に関する書籍は、こちら